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茨城県にある神社の中でも1、2を争うほどに有名な鹿島神宮。戦後は長期
政権を取った佐藤栄作首相が愛した神社としても知られています。

J1リーグの鹿島アントラーズの名前は、鹿を意味する「アントラー」にちなんだもの。
鹿島神宮には「勝利」を導く秘密がいっぱい隠されています。

実は、鹿島神宮を特別な神社とする秘密があります。一見七不思議のように思える話ですが、これは江戸時代にも起きていたある現象が素になっています。
それはなんでしょうか??

鹿島神宮ってどんな神社?

迷いを晴らし、自信を取り戻したたい、という人にお薦めなのが茨城県にある鹿島神宮。常陸の国一之宮神社です。東京ドーム15個分の敷地には豊かな自然が広がります。

鹿島神宮創建のの歴史は古く、神武天皇が即位をした紀元前660年、つまり皇紀元年に創設したと伝えられています。川向かいにある香取神宮も同じく神武天皇(皇紀)18年の創建であり、両社は日本で一、二を争う長い歴史を持つ神社です。

鯰にまつわる面白いエピソード

鹿島神宮には一の鳥居、二の鳥居、奥の宮に続く参道や鹿園など、素晴らしい見どころが沢山あります。が、今回はその中の「要石(かなめいし)」を取り上げたいと思います。

境内にある要石は霊石とされていますが、地表に大変深く埋まっていて、地表には1センチほどしか出ていません。水戸黄門で知られる水戸光圀公が、七日七晩に渡って掘り続けるように命じたものの、いつになっても底が見えてくる様子がなく、掘削に際して怪我人が続出したためついに掘るのを諦めた、とのエピソードが残っています。

鹿島神宮の要石は地中で地震を起こす鯰の頭を抑えるためのものであり、そのおかげで、この地方は地震の被害が大きくない、とのデータが出ているとか。

香取神宮の要石も同じで、両社の要石は地中でつながっている、これは鹿島大明神と香取大明神が要石をもってなまずの頭と尾を抑えているため地震が起きないのだという言い伝えが、今に語り継がれているのです。


本当にちょっとしか出ていませんね!

言い伝えが広まったきっかけ

両社の要石が広く知られるようになったきっかけは、実は “地震” です。安静二年(1855年)10月に起こった安政大地震は江戸に甚大な被害を与えました。江戸時代は泰平の世とされていますが、地震は避けられなかったのです。

五代将軍綱吉の治世末期にあたる宝永四年(1707年)、宝永大地震(マグニチュード8.4)が発生します。この時は房総から九州までの沿岸に津波が襲い、死者三万人余りの大被害が出ました。

それから約一か月半後の11月23日には、この地殻変動に連動する形で富士山が大噴火します(宝永大噴火)。江戸でも噴火による灰が雪のように積もったとか。

しかし、その宝永大地震を上回る直下型の地震が江戸の町を襲います。それが、安政大地震。被害が最も大きかったのは本所、深川、浅草などで、町人地だけで一万六千棟が崩壊しました。死者は約五千人に達しました。

そして、鯰絵(なまずえ)の登場!

地震の衝撃から人々が立ち直り、復興に向けて進んでいく中で江戸では” 鯰絵 “なるものが大量に版行されて人気を呼んでいました。

鯰絵とは、鹿島神宮、要石、そして自信を起こす鯰が構成要素として描かれた上に滑稽見のある文章が添えられた錦絵のことです。この時描かれた鯰絵は大変な人気を博し、数百種類にも及びました。

しかし、時間が経過するにつれて、地震の復興から人々が立ち直っていくと、代わって人気が出たのが震災後の世相を風刺した鯰絵です。地震で多くの人が家屋などの愛さんを失いましたが、一方、復興の過程で富をなしたものもいました。

材木商は言うに及ばず、大工や左官なのの職人の場合はその需要が急上昇し、賃金が高騰していたのです。幕府は社会不安を増幅しかねないと取り締まりを図ろうとしましたが、
上手くいきませんでした。結局のところは、流行が収まって需要がなくなり、版行は沈静化するのを待つしかなかったのです。


鹿島神宮のみどころ

鹿島神宮の社殿は二代目将軍の秀忠が寄進しました。家康が征夷太陽軍に任命された1602年に江戸幕府を開きましたが、その時社殿を寄進しました。しかし、秀忠が現在の本殿。石の間、幣殿、拝殿の四棟を寄進したので、奥の宮となりました。

(出典:鹿島神宮 境内案内)

奥の宮へ行くには300メートルに及ぶ奥参道を歩きます。巨木に囲まれた緑のトンネルをゆっくり歩くと気持ちが安らぎます。途中に鹿園おあり、可愛らしい姿を見ると心癒されそう。

(出典:鹿島神宮 境内案内)

また、境内には沢山のご神木があり、まるで境内の空気を浄化してくれているように感じることができます。

(出典:鹿島神宮 境内案内)

まとめ

さて、軍神タケヅチノカミをご祭神とする鹿島神宮は、何といっても「勝運」で有名でしたが、もう一つ、地震を鎮める神様としての顔もありました。鯰絵の人気は一過性ものでしたが、鹿島神宮の要石の存在を大きく知らしめるきっかけとなったことには間違いありません。

今年、2018年も近畿地方や北海道でも大地震が発生しました。でも、こうして見ると、地震が起きるのはいつの時代でも同じように起きるのだ、それでも人々は力強く復興していくんだなぁと改めて感じました。

私は関西在住なので、鹿島神宮への参拝は少し距離がありますが、勝利のご利益をもらいにぜひ訪れてみたいと思います。また、その時はぜひ要石にも地震を抑えてくれるようにお願いしてこようと思います!